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昨夜、新宿紀伊国屋での、吉本隆明さんの講演に行ってきました。
7月に行われた芸術言語論のつづきです。 今回は吉本さんのご自宅から中継ということでしたが、 それは原丈人さんのXVDという最先端の映像技術を使っての生中継でした。 ふつうのインターネット回線を使って、小さなデータ容量でも 映像の乱れたり時間のかかったりという、ストレスなしに送れるという技術で、 彼はこの技術をバングラデシュの人々の生活をよくするために使いたいそうです。 遠隔医療や遠隔教育に使うのだそうです。 この原丈人さんという方も、とんでもないすごいひとです。 スケールが大きくて、根本から動かそうとして、しかも動ける人。 芸術言語論 その2 は、今回は『詩』を中心にした内容でした。 日本における詩は、古事記のなかの、問答歌から発していて、 万葉の和歌の上の句、下の句の対比も、この形を踏襲しているということ。 上の句、下の句というのは、主観性と客観性で、 俳句の正統的な形には必ずこのふたつがあるのだそうです。 西欧の詩は日本のそれとはまったく違っていて、 西欧の詩がはいってきたとき、とてもびっくりしたのだということ。 三木露風の有名な赤とんぼの歌がありますが、最終行の 『赤とんぼ とまっているよ 竿の先』を、 はじめのうち露風は、俳句ができたと言っていたそうなのですが、 これは俳諧をしている人からみれば、ぜんぜん俳句の形をしていなくて、 なぜなら、五七五ではあるけれど、 これは情景をそのまま詠んだだけで対比がない、 主観と客観の対比がないから、ということでした。 俳句と言っていたものを、この詩の最後に持ってきたということは やはり本人も物足らぬところがあったのだろうし、 詩という形にしようと苦心したところなのだろうとも。 このことは俳句、短歌、詩とそれぞれの独立した 現代の状況をみれば、とてもむずかしいことを成し遂げている... また俳人の正岡子規が情景を詠んだなら 『鶏頭の十四五本もありぬべし』となって 客観的風景を主観で、ありぬべし、といっている... さいごに、主催の糸井重里さんが 日本でこうだったように西欧でも歴史があって、 こんふたつはいつかは重なるものでしょうか、といった様な質問をした後、 言葉は何もないところに、降ってわいたものではなく、 地形から地名が発生するように生まれて、 風俗の積み重ねであり、遺伝子のものだということを話しておられました。 人工的に記号として言葉はつくれるものではない、 DNAの歴史がこめられて、今ある表現に至っていると。 ふだんのわたしは、まったく俳句や短歌なんて読みもしないので 最初ついていくのも大変でしたが、いろんな例を挙げながら熱心に話してくれる 吉本さんにどんどん引き込まれて行きました。 短かい期間に二回も、吉本隆明さんの講演を聞けることになって とてもラッキーなことなのだと思う。 正直いまはぜんぜん解っていないですが、 何か深いところに作用しているような気がしているので 時間をかけて追いかけていきたいなあと思ってます。 吉本隆明さん入門本。CDおもしろいです、けっこう笑える話もあるのでおすすめします! 吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜
by zizis
| 2008-10-28 10:45
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